今世紀の初めの2001年2月、アメリカの偉大な学者が84歳の幕を閉じた。
ノーベル賞受賞者、自らをサイコロジスト、心理学者と位置付ける、初期の人工知能の考え方の基礎を作った男である。
その学者の名は、ハーバート・アレクサンダー・サイモン。
彼は、人間の思考を研究し、行動パターン、例えば意思決定のメカニズムをコンピュータのような形あるもので体現しようとした。
ハーバートに関する和書英語を習得したお陰で、本人の動く姿を動画で見る事ができ、その声を聞いて理解する事ができるのは幸せな事だと思う。
まるで、サイモン先生が教壇に立つレクチャーホールにいるかのようである。
インタビューの動画を見れば、まるで自分が会話をしているような気になり、少し賢くなった気がしてしまう。そんな事は断じてないのだが、ゲームに熱中する時のように、自分の享楽世界と現実世界との関連性はさほど重要ではない。
先生の功績の中でも、satisficing(サティスファイシング)という概念が有名だと思う。
これは、満足させるという意味のsatisfyと、犠牲にするという意味のsacrificeを合成させた、キメラのような単語である。
当然、その学説は深く難解だが、簡単にいうと、人間は複数の選択肢の中から一つを選ぶとき、必ずしも「最高の選択肢」ではなく、「及第点」に達したものを選ぶというもの。
サイモン先生に似た大天才の映画彼の過去の文献を調べていくと、rationalityとか、non-rationalityという言葉が頻繁に出てくる。人間の思考回路は果たして合理的なのか否かという問いである。
彼は、人が生涯をかけて学ぶものは、topic、科目ではなく、question、つまり問いかけであるべきだと解いた。
ここでいう「問い」とは、シェークスピアの戯曲ハムレットの有名なセリフ、
To be or not to be, that is the question.
(生きるべきか、死すべきか、それが問題だ)
の「問題」を対義語とする”question”にあたる。つまり、学ぶという事は、解い続けるという事。
80年代くらいだろうか、彼は言った。AIが模すことが最も難しいのは、人間の器官である、と。例えば目、耳、鼻、手足、などである。
そして、それと同じくらい難しいのは、deep cognition、つまりディープな思考である。弁護士が法律を自分の頭に六法全書を叩き込むような作業はAIにもできる。しかし、弁護士がその知識と経験、感性を駆使して深い思考を創造するのは、AIでは難しいという事だ。
そして、言語処理は中級の難しさだと言っている。
一番簡単なのは、いうまでもなく演算である。
そんなサイモン教授との思い出に浸りながら、自分の想いを書き綴ったアンソロジーを読んでみた。
それを読むと、ハーバートがいかに偉大なサイコロジストで、コンピューターサイエンスの教授で、父で、人間であるかがよくわかる。
教授の娘さん(と言っても今はマダムになっているが)は、時々自分の父がもっと明確に指示をくれる人だったらよかったのにと思った。
ハーバートは、娘にはっきりとああしろこうしろと指図するのではなく、常に質問をし、彼女の思考にチャレンジし、考えさせ、自分で答えを導き出させた。彼女は、今ではそれに感謝しているという。
学友には、大きな発見は運による産物だと断言した。ただし、心の準備と正しく継続した努力という前提条件が揃って初めて”運試し”の船に乗る事ができるのだと。
ハーバートカーネギー・メロン大学で教えていたとき、もし自分に入学者を決める権限があるなら、コンピューターサイエンスの学位を持っているだけの生徒は絶対に自分の学部に入学させない、と言い張った。
コンピューターサイエンス専攻の学生の多くは、大学でコンピューターしか勉強していない。そういう人間は、型にハマった勉強しかできず、新しいアイディアを創造するための研究ができない、というのが理由だった。
彼の意思に反し、現代ではずっとコンピューターだけを勉強してきた人間が、大学院でコンピューターサイエンスを勉強する、とハーバートの学友は嘆いているようだった。
彼との思い出が詰まったこの書籍には、彼が生前に遺した多くの言葉が記されていた。
日本からも、いつかこういう偉人が出てきて欲しい。
Reference
Mie Augier (2004) Models Of A Man: MIT Press.