今でも時々中学の英語授業のことを思い出します。
90年代のことでした。始業のチャイムが鳴り、先生が教室に入ってくると、学級委員の「スタンダップ」の号令に、生徒全員が一斉に立ち上がって迎えます。
先生「グッド・モーニング・エブリワン」
生徒「グッド・モーニング・ミスター・オオサワ。ハウ・アー・ユー?」
こんなことを毎日やっていたのに、無意味でした。せめて、カタカナ発音じゃなくて、
Good morning.
くらいまともな発音ができるまで教えて欲しかったと思います。
結局、英語は中学、高校と6年間学んで、日本の大学でも少し学びました。そのほとんどはテストのための英文の”和訳作業”であり、アメリカの大学に留学した時、学校教育で得た英語の知識はまったくと言っていいほど通用しませんでした。
私自身、決して自分はいい生徒ではなかったのですが、言わせてもらえば、まだ人生経験も浅く賢明な判断もできない子供を勉強する気にさせるのも教師の役目ではないかと思います。
今日は、これまでの日本の文部科学省が定めた英語教育課程、また同じコンセプトを基本としたTOEICや英検がなぜ「使えない」のかを考えてみたいと思います。
今回のソースは、言語教育学者による書籍と、私と私の周りの英語学習体験談、及び英語スキルを持つ人材を採用する経営側の視点を使用します。
目次
TOEICのハイスコアや有名大学の英文科は、仕事で使えるのか
英語を使える人材を積極的に採用する会社のマネージャーの立場として、結論を言うなら、答えは、新卒ならYES、中途採用ならNOです。
中途採用であれば、それよりも、海外に何年住んでいたとか、前職で海外の取引先とガンガン仕事していたとかの実績の方が確実です。
では、なぜ、新卒採用の場合、多くの日本企業がいまだに学歴やTOEICスコアを重視するのか、というと、厳しい現実を叩きつけるようで反感を買いそうですが、あえて本当の事を言います。新卒の場合、海外の人材と比べ、日本人の英語レベルがまだ低いからです。
TOEICスコアの高い人も、低い人も、英語のレベルは大抵まだビジネス・レベルにさえ至っておらず、ビジネスで実用するレベルかというと、そうではありません。経験がないので、当然です。
どうせ実戦で使えない英語からのスタートなら、せめてスコアの高い人を採用しよう、と考えているに過ぎません。
また、中途であってもTOEICのスコアを重視する企業はありますが、日本の企業では、人事の採用担当者もビジネス・レベルでの英語が使えない場合が多く、候補者の英語をテストする能力がありません。だからテストの点数という誰にでも分かりやすい尺度で判断するしかないのだと考えられます。
TOEICが900点でも実践では使えない理由は?
「一夜漬け」でTOEICが900点を取った人が過去にいました。でもこの人の英語力は、お世辞にも実戦で役立つレベルとは言えませんでした。これほど難しいレベルの点を取れているのに、なぜでしょうか?
一言で言うと、TOEICと英語の実戦では、武道でいうところの演武と組手くらいの差があるからです。
確かに、TOEICが700点や800点あれば、就職の間口は広くなりますが、それだけでは、その後英語を強みにキャリアを積むのにさほど大きなアドバンテージにはなりません。
「英語を使えるポジション」という名目で募集をしている仕事は、逆に求職者にとって魅力のあるポジションなので、英語を勉強してきた候補者の応募が集まり、かえって競争率が高くなる事があります。
つまり、企業に「英語力を提供する」のではなく、企業に「英語を使用する機会を提供して頂く」状態になります。いわば、「英語を使える環境」が福利厚生のようなものです。
この状態では、TOEICのスコアがあったとしても、上記ような仕事への応募資格は満たせますが、それだけでは汎用型の「コモディティー」であり、候補者を唯一無二の存在にする強みにはなりません。
本来、ビジネスでどのレベルの語学力が必要かというと、「英語が他の能力の足を引っ張らないレベル」です。つまり、企業が優秀な人材を欲しがるのは大前提ですが、「非常に高いプレゼンテーション力があるが、それは日本語が前提で、英語では半分も話せない」ではダメなわけで、つまり「日本語と同等かそれ以上のレベルで、なおかつ高い仕事のパフォーマンス」が出せるレベルの能力があって初めて「強み」となるわけです。
本当の強みを企業に証明するためには、テストの点数ではなく本当のコミュニケーション・ツールとしての英語のスキル、プラス何かのスキルを磨き、、英語を使わないと出来ない、でも英語だけではなし得ない実績を積む必要があります。これが唯一無二の強さになり得る、ヘッドハンターに目をつけられるレベルです。
英語は本来ツールであって、あって当たり前の知識であり、英語が使えることそれ自体にはなんの意味もないというのが世界の常識です。日本には、そこまでのレベルの英語は必要ないと言う人は多いですが、私は信じません。そういう人に限って海外とのコミュニケーションは限定的ですし、問題の本質に真剣に向き合わないからそれ以上の進歩がない。そんな風潮が近年の日本の国際競争力の衰退に関わっていると私は考えます。
と言うわけで、テストのスコアは実績を積むための場所を得るためのパスポートに過ぎず、TOEIC900点や英検1級を取っても、スタートラインに立っただけに過ぎません。
ではなぜ、残念ながらTOEICのスコアはイコール英語力ですらないのか?
イリノイ大学の言語教育学者アリス・オマジオ・ハードリーの学説を参考に、検証したいと思います。
考えられる主な理由は、以下の2つです。
- 文法にフォーカスし過ぎ
- 文法をマスターすれば英語をマスターしたと勘違い
文法にフォーカスし過ぎ
ハードリーによると、言語のスキルはコンペテンス(competence)とパフォーマンス(performance)で構成されており、コンペテンスは、「何を知っているか」を表し、パフォーマンスは「何をするか」を指します。言語学習者および教育者はまずこのことを理解するべきです。
テストの目的は、言語のパフォーマンスを向上することですが、そのためにはコンペテンスが必要です。コンペテンスを客観的に評価するには、評価しやすいパフォーマンスを評価する必要があります。言い換えれば、コンペテンスは、パフォーマンスを通してしか評価することはできません。
この評価の方法が、日本ではTOEICや英検などのテストだったり、卒業証書だったりする訳ですが、そもそも日本にも欧米のように実務でバリバリ英語を使う機会があれば、テストなどという形式を取らなくとも、客観的に英語力を証明することができます。
それがないから、TOEICや英検は、日本社会の中での英語の実用機会の少なさや評価経験の少なさを補うための代替品として使われているといえます。
さらに、言語学者スワンとカナーレの提唱するフレームワークに基けば、英語のコンペテンスはさらに以下の4つで構成されています。
- Gramatical competence (文法的コンペテンス)
- Sociolinguistic competence (社会言語学的コンペテンス)
- Discourse competence (談話的コンペテンス)
- Strategic competence (戦略的コンペテンス)
そして、日本の英語教育やTOEICや英検は、一番上の「文法的コンペテンス」に重点を置いています。
ここでいう「文法的コンペテンス」とは、いわゆる狭義の文法、正しい語順やセンテンス構成のルールのほかに、ボキャブラリー(語彙)の知識を含みます。
大学までの間に、「仮定法過去形」とか、「関係代名詞」とか、本来はシンプルなものに大仰な名前をつけることでハードルを高くし、もっと簡単に学べるのに10年もかけて英語の「文法」ばかりを習得します。残念ながら、英語が身近になったという感覚はあまり芽生えません。
なぜ「文法」ばかりにフォーカスするかと言えば、それが一番簡単だし、責任がないし、教える側に高度なスキルや経験が必要ないからだと思われます。
文法をマスターすれば英語をマスターしたと勘違い
「文法的コンペテンス」をマスターしても英語力と直結しないのは、当然のことながら、他の3つのコンペテンスがカバーされていないからです。
4分の1の能力で戦えると考える方が不自然です。例えばスポーツの練習で、右手の動きばかり覚えても、左手や両足が使えないようでは、試合で勝つことはできません。
では残りの3つのコンペテンスはどんなものでしょうか。
Sociolinguistic competence (社会言語学的コンペテンス)
これは、「文法的コンペテンス」を的確な文脈や状況で選択的に使える能力の事です。
「高校までに習った単語は大体知っている、でもこういう場面ではどの単語を使えばいいの?」
という疑問を抱いたことはないでしょうか?
日本人に得意な「空気を読む力」も、英語になると途端に鳴りを潜めてしまうのは、このコンペテンスを学んでいないからです。必ずしも日本人が生まれ持ってシャイだからではありません。
従って、言語を学習する場合は、その背景にある社会的、文化的要素を学んでいく必要があります。
TOEICや英検では、この部分はあまり掘り下げず、単純に点数を上げるためのメタ情報と、ビジネス用のツールとしての機会的なストラクチャーにフォーカスしているので、実践力を養うには、残念ながら他のところでこれを補う必要があります。
Discourse competence (談話的コンペテンス)
「文法的コンペテンス」で得た語彙や概念をつなぎ合わせ、一貫したメッセージを形成し、伝える能力を表します。
このコンペテンスが欠如している人は、語彙はあって語彙を使うのに適した場面を知っていても、言っていることが支離滅裂で、何を言っているのかわからない、というような状態が起こります。
逆に、この能力が高い人は、的確な代名詞(you, he, she, they, etc.)、接続詞 (but, and, because, since, etc.)の使い方がうまかったり、比較の使い方が的確だったりと、会話上の表現力に長けています。
Strategic competence (戦略的コンペテンス)
言語やノン・バーバル・キュー(ジェスチャーや表情、アイ・コンタクトなど)を使って、相手と自分との理解の差を埋める技術を指します。
カナーレによると、修辞的な表現、あるいは建前と本音の使い分け、言葉の綾、なども含まれます。この辺りは日本にも強い特色がありますが、英語圏、あるいは世界のあらゆる文化の影響を受やすい分野でもあります。
このように、「文法的コンペテンス」を除く3つのコンペテンス(コミュニケーション的コンペテンス = communicative competenceともいう)は、どれも英語を実践するのに必要なコンペテンスです。
英語がコミュニケーション・ツールなのだから、コミュニケーション能力とセットで習得するのは至極当然の事です。
「文法的コンペテンス」は機会的な暗記で賄える分、教育も採点も楽なのに対し、3つのコミュニケーション的コンペテンスは複雑であり、奥が深く、実践経験のない者には教える事はできません。
そして、残念なことに、日本は、唯一力を入れている「文法的コンペテンス」を計測するテストの水準さえ、他の先進国と比べて低いという事実があります。
私はこの原因に、4つのコンペテンスには相乗効果(シナジー)があることが原因ではないかと考えます。
シナジーとはつまり、欧米の社会的背景やコミュニケーションを実践的に学ぶことで、自分の能力の向上が実感でき、目標が定めやすく、「文法的コンペテンス」の記憶が脳に定着し、どんどん覚えられるようになる状態です。
日本の教育は実践の場が極端に乏しく、意図的にその環境を整えるのが苦手なため、とても効率の悪い英語学習を行なっていると考えられます。
海外では4つのコンペテンスを全て重視するため、効率よく言語習得が行われ、結果として「文法的コンペテンス」にも差が生まれているのではないか、と思うのです。
日本で実践力を上げるには
とはいえ、現状日本企業はテスト以外に募集者の英語力を評価する術を知りません。従って、割り切ってTOEICや英検の成績を上げることが、「英語を実践する環境」を獲得するための第一ステップかも知れません。
それならば、海外での実績がないところからキャリアをスタートする場合、まずは「テストの点を上げる」ことにフォーカスするべきでしょう。
でも、繰り返しになりますが、テストの点があっても、実践力がなければ意味がありません。
日本で、4つのコンペテンス全部を磨き、実践力を身につけるにはどうしたら良いか?
はっきり言って、日本のそのままの生活では不可能です。自分から殻を破って、コンフォート・ゾーンの外へ出ていくしかありません。
英語学習を阻害する最大の諸悪の根源は、日本語です。日本語で考える癖があるから、脳内に英語の回路が形成されず、頭で翻訳作業をしてしまうので、いつまで経っても「英語の神様の声」が心に降りて来ません。
そんな時は、
そう心に決めて、辞書は使いません。可能な限り文脈で理解します。どうしても理解できなくて辞書を使ったとしても、英語は英英辞典のみを使用します (単語をググる時は、”xxxx(単語名) definition”でググる)。
教材のおすすめは、ある一定の時間内は、日本語のメディアや情報を完全に排除して英語のメディアだけに触れる事です。特に、英語圏の文化がよくわかる英語のドラマやドキュメンタリーなどを、日本語字幕や吹き替えを使わずに英語字幕で見ることです。
ドラマ『スーツ』の個性的なキャラクターから、スタイルのある英語表現を学ぶ。
フェイスブック誕生秘話のノンフィクション『ソーシャル・ネットワーク』から英語表現を学ぶ。
英語のYouTubeにも字幕付きの質のいいビデオがあるので、日本語のコンテンツを避け、ひたすら英語の情報をインプットします。
そして、アウトプットの機会を得るためには日本語を話せない海外の友達を作るのがベストですが、それだけでは足りないので、経済的に合理的な範囲で週何回かの英語レッスンを受けるもいいでしょう。ただし、その場合、必ず毎回learning objective(学習目標)を意識して、それが達成できたかどうかの反省と次回への生かすというサイクル(いわゆる、Plan, Do, Check, and Act)を回しながら継続的に改善をしていくべきです。
自由と誘惑の多いこの環境において必要なのは、正しいhabit (習慣)、そのためのself-discipline(自分を律する力)、そのためのモチベーション、そのための英語を使った具体的な目標です。
テクノロジーの進歩により、今では国内にいても、ある程度海外と同じような環境は作れます。その分、海外は日本より外国語学習の分野において先に行っているので、日本が追いつくには、「英語」の習得そのものを目標にしていたのでは、到底かないません。「英語を使った明確な目標」が必要です。
日本語と同レベルの英語力をつけることは、誰にでも実現可能です。私のように英語の苦手な出来の悪い生徒が大人になってから始めても十分可能だったし、これまで英語を問題としないノンネイティブの人材を多く見ています。見たところ、そういう人材は日本人より外国人の方が多いのが現状ですが、日本人だって条件は同じです。
References
Hadley, A. O. (2001). ‘From Grammatical Competence to Communicative Competence,’ Teaching Language in Context. Wendy Nelson: Boston, MA, USA, pp.3-7.