努力する人は希望を語り怠ける人は不満を語るという言葉があります。
これは、20世紀の文豪、井上靖の言葉だそうです。
よく、自分が直面している問題についての不満ばかり言って根本的な問題解決をしようとしない人がいます。
人間の心理としてそうしたいのはわかりますが、当然のことながら、仕事上大きなネガティブ要素となります。
愚痴を言ったり、自分の不満を誰かに共感してもらう事によって、すっきりしてまた明日から頑張れる、という事もあるでしょうから一概には言えませんが、もしリーダーやマネージャーの立場にいる人がそのような事をしていると、環境はいつになっても改善されません。
Locus of control (LOC: ローカス・オブ・コントロール)という心理概念があります。これは、「統制の所在」と言って、何か問題が発生した場合、それを自分の力で解決できると考えるのか、それとも環境のせいなのでどうにもならないと考えるのかという世界観のようなものです。
もし、LOCが外にあり、なおかつ現状を受容れることができない人は、愚痴を言ったり何かでストレス解消することで不満をマネージしようとします。
逆にLOCが内にある人は、人生において発生するすべての出来事は自分の行動が招いた結果であり、すべてが自分の責任なので、自分の意思で解決できると信じています。
どちらが正しいという正解はないし、考え方は人それぞれですが、明確なのは、世の中には、自分の力でコントロールできることと、できないことがあることです。
自分の力ではどうにもならないことはありのままに受け入れ、気にせずに生きていく方が賢明です。変えられない事は世の中の摂理として受け入れられれば、いちいち不満に思う事はなくなり、愚痴を言う必要もなくなります。
私は、基本的には人間として生まれた以上、物理の法則にあらがう事はできないし、人の心や価値観は変えられないと思っています。ですので、ここ数年は、人の行動に腹が立つことはあまりありません。自分だって完璧な人間じゃあるまいし、人の期待に沿えず、人を腹立たせていることを思えば、自分には人に腹を立てる資格もないことがわかります。
逆に、自分の力でコントロールできることには、できる限り全力で改善を試みようと思います。人間として成長を続けるために、自分の能力を常に高めていくことや、情報を自発的にアップデートしていくことで、これは自分でいくらでもできることです。
具体的に何を頑張ればいいか?それが分からない人には、取りあえず読書をお勧めします。
私は、留学したころの分を合わせると、これまでに洋書を数千冊読んだと思います。和書も同じくらい読んだと思います。中国語の本も多少読みました。この学習が今の自分の「年収」という形で報酬になっていると考えると、多分読書1冊あたり年収数千円~1万円のリターンになっています。また、成長を続ければ、一度上がった年収は上がることはあっても基本的に下がることはない、ことを考えると、1冊の価値は最低でも数万円に値します。
英語を使えるようになり、自称「人口バイリンガル」となった事も、これまでにない大きなリターンを生んでいます(金銭面だけではなく、人生経験の質を上げてくれたという意味で)。
もともと高校までは英語の成績が5段階評価で2だった私がそれなりに頑張れたのには、理由がありました。アメリカ留学中はたくさんのアメリカ人に助けられたこともありますが、やはり、大きいのは、自分自身がとても臆病だったからです。生まれ持った才能があるわけではない自分は、相当努力しなければ社会人として通用する能力を持つことはできないとわかっていたし、社会人として通用しないことの怖さを想像できたからです。
今、「8050問題」が深刻な状態になっています。私たちの世代(40代前半~40代半ば)は、「就職氷河期の世代」と言われ、一般の大学卒業生には就職が非常に困難だった時代です。その時に挫折を味わった人たちは、その就職せずニートになりました。彼らは今、とうの昔に引退した「団塊の世代」の両親の年金に頼り、共倒れの危機にあります。
彼らにはまだ、年金暮らしでも頼る親がいますが、この世代の高齢者がいなくなった時、残された中年の息子や娘は一念発起して社会復帰することはできるでしょうか?社会経験のない中年を雇用する会社がそうそうあるはずもなく、彼らに残された道は、安い給与で将来におびえながら生活するか、生活保護に頼るしかないでしょう。
私にはそんな同世代の人たちを救う力はなく、せいぜい自分の周りの人間を守るのが精いっぱいで、彼らには励ましの言葉を掛ける事しかできません(たとえ届かなかったとしても)。
しかし、本当にあの場所から立ち上がるのは容易ではないと思います。
人間として何よりも怖いのは、精神的に依存の沼にはまって抜け出せなくなることです。
一定の年齢に達した大人が、気持ちを切り替えていきなり努力することは本当に難しいことだと思います。理由のひとつは、体力が失われ、社会的な自分への味方も厳しくなり、肉体的にも社会的にも選択肢を奪われること。もうひとつは、長年変化から逃げてきた人間には、自分を変えることに対する恐怖が生まれ、自分の生き方を維持しようとする作用が働くこと。
肉体的にも社会的にも選択肢を奪われる、の意味は、スキルを磨いてこなかった場合に用意される仕事は、おそらく肉体的にも過酷で、社会からの評価も低く、身体的・精神的なコストの割には日銭を稼ぐのがやっとで、いつも孤独だということです。
あとで依存の沼で藻掻くらいなら、そうなる前に自発的に目的を持って死に物狂いで勉学に励んだ方が、はるかに楽な道です。
よく成功者が「僕は努力なんかしていない」と言っていますが、それは嘘だと思います。一般の人よりもはるかにいろんな事を勉強しています(多分セルフ・ブランディングの一環です)。
そもそも、努力なんて他者と比較できるものではないです。
どうせ毎日努力するのが人間の義務なら、自分の努力を楽しめる人生の方が、努力しないですむ人生よりはるかにポジティブで喜びも大きいです。
そして、何かを好きになったり楽しむことなら、自分の意思でコントロールできるし、選択の自由があります。
今は、人生が多様化している時代なので、自分で自分を律することができない人を説教することはタブーとされています。それにより、悪しき「個人主義」が生まれている気がします。
日本人は自分で人生の選択をする自由を手に入れましたが、世の中の厳しさは何も変わっていません。会社から求められるスキルの水準が低くなったわけではありません。日本の外では、かつての後進国や発展途上国人材が、すごいスピードで成長を続けています。
詳しくは、過去の記事『クリティカル・シンキングとソクラティック法で転職とキャリアを制するには』参照。
寧ろ日本経済は厳しくなってきているので、自由や権利と隣り合わせの「自己責任」と「義務」は認識しなくてはなりません。
自由の国アメリカや欧州を見習って日本も「自由と権利」を主張する風潮があるのだと思いますが、欧米にはもとより、”rights”と”responsibilities”は表裏一体の関係で認識されています。でも日本では、与えられる権利ばかりに目を向けて、義務(勤労の義務や納税の義務も含まれる)を果たさないことのリスクは認識されていないのかも知れません。
頑張りすぎている人に、
「頑張らなくていいよ」
と言うのは簡単です。でも、努力しないことのリスクまで責任を負ってあげられるのかというと、そこまで考えいない場合が多いのではないでしょうか?
味方であるなら、弱い人に努力することを促すことも優しさであり、努力している姿を見せてあげることも優しさではないでしょうか?
ただし、言うまでもなく、頭の悪い人が、弱い人にマウントを取って征服欲や自己承認欲求を満たすために不適格な説教を垂れるのは問題外です。
今回の記事は今の日本に対するアンチテーゼのようで偉そうでしたが、筆者の自分への戒めでもある、とうことでお許しください(ときどきだらけることがあるため)。